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壬申の乱
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壬申の乱(じんしんのらん)は、672年に起きた日本古代最大の内乱。
天智天皇の太子大友皇子に対し、弟大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反乱を起こした。
反乱者である大海人皇子が朝廷側に勝利するというもの。
天武天皇元年は干支で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたるためこれを壬申の乱と呼んでいる。
因みに、この時代は、天皇の嫡子よりも弟に継承の優先権があった。
なので、息子がいても弟がいれば、弟に皇位が受け継がれる。
つまり、息子よりも弟が優先。
えらかったのです。
しかし、天智天皇は息子の大友皇子に継承。
大海人皇子は吉野に行き、出家。
坊さんになります。
そして大友皇子が天皇となるんです。
日本書紀には、天智天皇は当初大海人皇子を天皇にたてたが、大海人皇子がそれを退けたとあるが、それが創作という説もある。
大海人皇子が地方豪族を引き連れて、大友皇子を追放して天皇になる、
これが、壬申の乱。
672年天智天皇没。
その後、大友皇子が継ぐ。24歳であった。
大海人皇子は近江朝の吉野制圧を警戒し、吉野を出て、美濃に移動。
不破の関を封鎖、東国から兵を集め、大和と近江の二方向に挙兵した。
近江朝廷の大友皇子側は、東国と吉備、筑紫(九州)に兵力動員を命じる使者を派遣したが、東国の使者は大海人皇子側の部隊に阻まれ、吉備と筑紫では現地の総領を動かすことができなかった。
朝廷側が乱に敗北。
大友皇子は自害したとも、東国に逃げたとも言われている。
乱によって近江朝廷が滅びた。
再び都は飛鳥に移される。
その後は法制度の整備が行われた。
服制の改定、八色の姓(やくさのかばね)の制定、冠位制度の改定など。
天武天皇は天智天皇よりもさらに中央集権制を進めていったのである。
中国の唐にならった律令制が本格的に始まります。
つまり、天皇が一番偉いっていう時代が始まります。
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