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ドーキンスと信仰者の対話


聴衆の質問に冷徹に回答するリチャード・ドーキンス

ウィキペディアより
ドーキンスは、「自然選択の実質的な単位が遺伝子である」とする遺伝子中心視点を提唱したことでよく知られている。「生物は遺伝子によって利用される"乗り物"に過ぎない」という比喩表現は、多くの読者に衝撃を与えた。遺伝子中心視点の考え方は、ミツバチが見せる一見利他的な行動など、動物のさまざまな社会行動の進化のプロセスを説明するために提唱された血縁淘汰説やESS理論を先鋭なスタイルで表現したもので、社会生物学が広く受容されるきっかけの一つとなった。自然選択を重視する彼の立場から、マレク・コーンはドーキンスをダーウィンの思想的後継者の一人と位置づけている。イギリスのメディアではダーウィンのブルドッグと呼ばれたT.H.ハクスリーになぞらえて、「ダーウィンのロットワイラー」と呼ばれることもある。

文化の伝播を遺伝子になぞらえた「ミーム」という語を考案した。スティーヴン・ジェイ・グールドとの論争でも知られる。この論争は社会生物学を受容するグループと拒絶するグループの象徴となったが、二人は創造論に対しては共闘関係にあった。熱烈な無神論者、反宗教主義者、懐疑主義者、ダーウィニストとして知られ、世俗的ヒューマニズムやブライト運動、科学的合理主義の推進者でもある。2004年にプロスペクト誌が行った「イギリスの知識人100人」で首位に選ばれた。2006年の著書『神は妄想である』は2007年11月の時点で英語版の売り上げが150万冊に達し、31カ国語に翻訳された。今日、彼の著書の中で最も有名な一冊となった。
以上引用元:ウィキペディア

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私自身、ドーキンスと同じ宗教否定論者なので、同感です。
キリスト教や仏教を信じることで得るものは何なんでしょうか。

空虚過ぎるこの世界で生きるための杖のようなものなのでしょうか。

宗教を否定したら絶望するのでしたら、その絶望と共存して、死のその瞬間まで生きる。
それが極自然な生き方だと思うんですが。

もともと、宗教というものは、ネアンデルタール人が、死者を埋葬すること、自然への畏敬の念から始まった。
もしくは、太陽信仰のようなものでしょうか。アニミズムとも関係があると思います。

そういったものが全世界の人類から自然発生的に生まれ、引き継がれました。

しかし、今、現在、人類は自分たちの心理を自分たちで自己反省・分析することができます。

果たして、神はいるでしょうか。
神は幻想です。


哲学的つぶやき-その23-
ジャック・ラカンは、商品やサービスを受け、それに対してお金を支払うことを非常に重­視しました。彼の療法の特徴である短時間セッションで、単に握手をしただけの患者に対­しても、彼は常に治療費を全額払うことを求めましたし、もし相手が払おうとしない場合­は、平手打ちさえためらわなかったそうです。これは、ラカンが、患者が経済活動という­コミュニケーションの回路に入ることが、患者を回復させるためには必要だと考えたから­なのです。

引用元:youtube

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自分や自分の家族、息子、娘、妻を特別な存在として見る。
人生の「物語化」

実際は、一般的な人間がいるだけなのに、何かドラマが起こると、まるで自分たちが「世界の中心」にいるかのように思う。

世界でたった一人の妻、息子、娘。
かけがえの無い。

この集団の病理、社会の病理

複雑な人間関係の中で、いろいろなことが起こる。
誰が加害者になるか、誰が被害者になるか、
なぜ加害者になるか、なぜ被害者になるか、
その心理に奥底には何があるのか、

いじめられるから、自信が無くなるのか、
自信が無いから、いじめられるのか、

物事をあっさりと断定形言い切る、某父親、
本当にそれでいいのだろうか。

私は断定形で物事を言い切る人に対して懐疑的になる感覚がある。
なぜ、自信があるのか。
パフォーマンスで自信を演じている場合もあるし、
逆に、悩んだ経験が無いから決め付けるのかもしれない。

たまたま、自分の息子が「いじめ」の対象になったとする。
しかし、よくよく見ると、一過性の現象であり、「いじめ」というレッテルで語られる現象とは違う場合もある。

しかし、一度、「お宅のお子さんがいじめられてます」というレッテルを貼られてしまうと、普段の様子を知らされていない父親がそのことを知らされると感情的になって、どうしようもなくなる。

何時間も子どもたちの人間関係を観察しなければ言い切ることができない問題なのに、
なぜか、レッテルを貼って決め付けようとしてしまう。

この前の父親の態度はまさにそれだった。
私は腹立たしかった。

相手の言い分なんか「聞くもんか!」という怒りの態度。
決め付けて、相手をとっちめてやろうという態度。
客観性なんかかけらも無い。

こちらも、相手の顔色を見て騒然とし、なんとかしないと、と、面談を緊急で開く。

しかし、その面談もやっていくうちにつれて、・・・・・・、

父親が冷静さと客観性を取り戻したりするから。

緊急招集された家族たちは、・・・・・・・、

いったい、何のことやら。

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客観性と冷静さを失った人ほど厄介なものはない。

人の意見も聞かず、何を話しても言い返してくる。
自分こそ正義。

絶対正義なんてあるか。
絶対悪なんてあるか。

対話と観察を失ったところには争いと無理解、無関心しかない。

自分の特別な物語(家族、妻、息子、娘)を傷つけられたという一方的な思い。
自分が人生の主人公になるとき、

自分が正義の味方になる。
相手が悪になる。

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この前の飲み会

自分がなかなか結婚しないからって、
何かにつけて幸福のキューピッドになりたがる人。

自分の知り合いに勝手にラインを送って、一方的に金曜日にお見合い合コンを設定する奴。

でも、あれだよ。
相手は、
子ども3人いるんだよ。

ちょっと、いきなり3児の父ってのは厳しいな・・・

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でも、そろそろ、痺れを切らしています。
女性と付き合いたい。

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心理学33 知能

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こじるり
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