スーパーバブル、弾けた?
また、来た?
バブル、弾ける詐欺、
何百回目?
結局、何度も弾ける、弾ける言っても、数回ダウンしただけじゃないか。
そして、日経平均は緩やかにダウンしていくものの、ときどき回復して、なんか、どっちに行くんだかわからないチャートを描いている。
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ウーロンの変態目がヤバイ。
ウーロン、実際のは、ウーロンの地元の人、(ドラゴンボール)が、
親切な人のふりをして、真顔でチチに浴室の場所を案内する。
チチに、「ここが脱衣所ですよ。」って促すまえまでの普通の一般人を装っていたウーロンの親戚たちに「オラ、はずかしいだ」って反応するチチ。
占いババが「おらがいるのではずかしいことはない」
って言って、そのままチチが浴室に進むと、
「やった」みたいな感じでエロい表情に。
本当、ついでにとんちんかんの、間抜作先生みたいな顔になってますよね。
チチの入浴シーンに群がる変態ブタ
ウーロンの親戚たちは、チチのチチを見るために小屋に押しかけてると、案の定、ギャグマンガのノリで、エロいウーロンの親戚は蹴り飛ばされてどっかに行ってしまいます。
もっと、上手いことやったら、まんまとのぞけただろうに、まあ、ここで、ウーロンがチチの乳をまんまと見てたらドラゴンボール的には面白くないし、あまりにもストーリーがエグくなってしまうのでしょう。
このウーロンの故郷の八角村というとことでいつも、こんなことをやっているのでしょうか。
ちなみに、本編では、占いババだけが全裸になってしまい、どうかんがえてもガラス球の水晶玉にへばり付いてました。
いやあ、丸出しになってるだろって。水晶玉のガラスの角度によっては・・・見えてしまうのではないでしょうか。
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中国語日記
二年级已经停课。
在家里,他们在平板电脑上教艺术和手工。
我在教室里教书。
他们呆在家里。
我通常用于艺术和手工的工具,如颜料,都在学校。
所以我用家里的东西来教课。
这些课程是两节45分钟的课程。
我还没有决定是完成一次课还是做两次同样的事情。
现在,我有一个问题。
一个家庭拥有丰富的工具。
一个家庭没有多少工具。
一些家长误认为他们必须出去买他们没有的东西。
在本课中,我将用家里的简单材料来做。
这些东西包括纸张、胶水、剪刀和蜡笔。
没有必要购买新的。
我准备在教室里授课时,在教室后面为家长写下这张纸条。
制作的对象是动物、鸟类和鱼类。
将纸折成两半。
留出一段,用胶水粘上。
不要把它全部堵住。
当胶水干燥时,用手指触摸它,以确保它不会剥落。
首先,做一个类似信封的形状。
现在,如果你在信封上的这里和这里剪开,它看起来就像什么。
是的,确实如此。 它看起来像一条鱼。
我们也来做我们自己的动物吧。
最后,撕下剩余的头发,放在里面,用胶水粘住。
你也可以给它们涂上颜色。
你也可以在上面粘贴丝带或折纸。
再看小学1-3年的孩子。他们平时只上半天课,每天基本12点、1点左右放学,下午半天要么是学校托管,要么去兴趣班。
平时他们上课可能连课本都没有,因为一些芬兰学校不给低年级的孩子发课本,他们觉得这一学段的重点是学生习惯和品格培养,学习动机的激发,以及鼓励孩子社会化学习,而课本不是学习的必需品。这些孩子很难适应一夜之间所有科目都搬上了屏幕。
再比如有特殊需求的孩子。
可能是那些接受特殊教育的孩子,他们对资源的要求很高,在家里很难操作。也可能是需要芬兰语课程的移民孩子,他们刚来芬兰,平时所在学校会给这些孩子安排特殊的语言班,帮助他们融入。现在他们连芬兰语都听不懂,怎么让芬兰教师给他们在线上课。
需要指出的是,芬兰政府让这些孩子可以正常去上学,并不是鼓励家长这么做。为了安全和健康,当局是希望家长有条件的话就让孩子在家学习,没条件的话也让孩子有学校可去。这无疑给了家长很大的自主权和选择权。
芬兰政府在做的,是在维护每个孩子受教育权前提下,站在好的教育视角下做决策。至于家长在健康权和教育权中间怎么选,政府把决策权给了家长。
翻訳:DEEPL
为什么芬兰的教育是世界上最好的?他们考试的功能只有一个
この中国語の動画は字幕もあって、学習者としてはとても見やすい。
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鶏がらスープがコラーゲンの原料になるアミノ酸が多く入っているらしい。
左足の膝裏が常に痛いので、摂取した方がいいのだろうか・・・・
昨日、朝、門で挨拶しているときに、中国語で話したら、「話せるんだ」ってリアクションが帰ってきた。
まだ、その程度の認知か。
もっとどんどんアピールして喋らないともったいないことになるかな。
最近中国語が登り調子なので、このペースを大事にして、喋れる中国語の脳を鍛えていこうと思う。
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ここ数日、寝過ごしが多くなった。
朝、4時に起きたくて目覚ましをセットしたのに、普通に6時になっちゃった。
こんなことが数回ある。
実際、DMM英会話を、ケニアのアンドリューのレッスンをこれまで2回も寝坊してしまった。
酒は飲んでないので、そっちの理由ではないと明らかにわかっているんだけど、
それ以外の理由では、激しい疲れと体力の低下が有るんだろうなって思っている。
それから、夏休暇が終わって仕事が始まって体力の回復が間に合わないという視点もある。
しかしながら、7時50分今日目覚めて、これが勤務日だったら最悪だよな・・・
って、ヒヤっとした。
DMM英会話のレッスンを2回寝坊して講師に迷惑をかけて、
そして、これが勤務日だったら確実に遅刻だなって思って、
今回も5分程度の遅刻を3回程度していて、もう、リーチ状態になってしまっているので、
なんとかしたいと思っている。
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【ベストセラー】「2度のがんから私を救ったいのちのスクワット」を世界一わかりやすく要約してみた【本要約】
足の強度が弱くなった。
そして、疲れやすくなった。
老化かな、
確実に老化かな。
YOUTUBEの動画ではスロースクワットをやった方がいいと言っている。
多分、自分はこれをやった方がいいんだろう。
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中国語の成長スピードが速まってきている。
なので、
今自分がやっている勉強方法をもっとこんつめてやっていって、
そして、中国人ネイティブのレベルになる。
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学芸大 新サークル棟 入り口
覚えている。
22歳の頃、
私は世の中の若者より4歳遅れて大学に入った。
普通ならば、この頃に大学を卒業する年齢なのだが、いろいろあった私の大学人生はこの頃始まったのだ。
東京学芸大学の入試があった1月か、2月だったか、冬のとても寒かったころ、
私はここに来た。
大学はやっていないはずなのに、この建物からトランペットをもった人が出てきたのを覚えている。
(どこで寝泊りしているんだろう?)
あとあと思えば、このサークル棟に寝泊りしていたのだ。
このサークル棟はまさに、巣窟だった。
大学の入試、二次試験はあったのは、今でいうC棟とかの講義等だったと思うが、
早く来過ぎてしまったために、私はこのサークル棟の前で時間を過ごしていた。
覚えている。
サークル棟の前の自動販売機で何かを買って飲んでたのを。
缶コーヒーかなにか。
東京学芸大学のサークル棟はまさに、巣窟だった。
床のタイルは剥がれて、ものは整理されず置かれている。
サークルという、大学の自治活動のため設置されている建物なのだが、サークル棟は完全に放任状態だった。
まさに、香港の中にあるクーロン城のように。
私の大学生活の中心はこのサークル棟だった。
他の学生がゼミとかに参加している一方、
私はこのサークルというものに参加していた。
もちろん、ゼミは論文を書くために必要なため誰もが入るのだが。
大学には授業というものがある。
これが大学の学習の根幹だ。
東京学芸大学の場合、体育系であれば、部活に入っている人もいただろう。
そして、文科系の場合、それがサークルというかたちになる。
部活と、サークルの明確な違いは無いと思う。
ゼミというのは、研究室の組織なので、これは、大学の学業の正式な学習組織であることは間違いない。
また、東京学芸大学のほかの大学との大きな違いは、学習塾の講師をやることが学生のアイデンティティとなっていることも少なくなかった。
私は大学の学生時代だった頃は、「児童館」の臨時職員だったので(アルバイト)、そこが、私の居場所でもあった。
私にとっては、この児童館と、前にも書いた美術研究部のサークルの部室が大切な居場所であった。
だから、大学の一限が終わると、荷物をもって、サークルの部室に行ったのだ。
とくに、大学3年生になるまでは、図書館やゼミに行くことはほとんど無かった。
荷物は美術研究部(美研)の部室において、そして、2限以降も行ったこともあった。
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卒業してからも、何年もサークル棟にやって来た私。
私は大学生のころ「美術研究部」に所属していた。
もちろん正式に。
そして、4年間の青春を謳歌した後、私は大学を卒業して、児童福祉施設に正式採用された。
そこはそこでやりがいがあった。
それでも、何か、物足りなさがあって、
そして、人間関係に物足りなさを感じて、
職場が国立から、大学が国分寺と自転車で近く行けることから、仕事が終わった後、大学のサークル棟に向かった。
職場に就職してからの数ヶ月は、職場が自分の本来の持ち場だったが。
そこから上手く行かないことが何度かあると、楽しかった大学生活を思い出しては、自転車でフラフラとサークル棟に向かった。
もはや、自分は美研の「主」になっていたのだ。
私は非正式なやりかたで部室の合鍵を手に入れた。
それは、
卒業と同時に返却しなければいけない部室のカギへ「返却」しなかったのだ。
つまり、持ち続けていたのだ。
だから、私は、卒業後も部室に入ることができた。
あの頃は、卒業生でまだつながりのある人がいて、その人が自分のサークル棟に行くのを付き合ってくれたり、在校生の中でも、前田君のように私のことを懇意に思ってくれる人がいて、数年はサークル棟は私を支えてくれた。
私は基本的に前田君を通して部室に入っていた。
基本的に活動の主役は在学生だし。
あたりまえだが。
それを邪魔しちゃいけないと知っていた。
私が学部生だったころ、卒業生のOBがいつまでも部室に来ていて、自分はなんとも思ってなかったのだが、それを良く思ってない現役生がいたのを知っていた。
私は直接トラブルにはならなかったが、反OBみたいな考えの現役生と、OBが関係が悪くなり、そして、OBが消えた。
そんなことがあってか、私の友人たちはOBとしてサークルに卒業ももい続けることを良く思ってなかったか。もしくは、社会生活や家庭で忙しくなってサークルどころじゃなくなかったのが大半だった。
結局、私は部室のカギを前田君に返した。
さすがに、自分が卒業してから入学してきた前田君が卒業しても自分が来るなんて「普通じゃない」と思ったため、私は実際には、前田君が3年か、4年のころにサークル棟に行くのを辞めた。
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この前、
2021年。
半年前に、今、現業で勤めている教師の仕事の折り合いが上手く行かなく、
もちろん、仕事は続けているのだが、
2021年の10月ごろだったか。
(基本的に公務員なので、退職するか、不祥事を起こしてクビにでもならない限りはい続ける、そして、教え子たちがいまも、いるため、自分はどんなに居心地が悪くても、そこにい続けることになる)
私はまったく不祥事なんて起こしてないが、
それでも、管理職が職場のボスなので、折り合いが悪くなると、あれこれ言われて立場が悪くなるのだ。
私は、子どもたちからも、同僚からも支持されていたが、
あの頃は、もう、職員室に管理職がいると、もやもやとストレスのようなものを感じた。
そのとき、私は、管理職と言い合いをして、
そして、仕事はもちろん続けていたんだけど、
それで、なんか、体調が悪いですって、電話をして、そして、私は1日、中央線で国分寺の駅まで行った。
私は国分寺の駅から、懐かしい古巣の本多児童館を見て、そして、貫井北町を通って、そして、東京学芸大学に入った。
もう、卒業して、20年近く経つのに、守衛が勝手に入っても何のお咎めもなかった。
警備がゆる過ぎる。
そして、正門を勝手に入ってからは、自由の身だった。
私は大好きだった東京学芸大学の構内を縦横無人に歩いた。
多くは、建物にカギが掛かっていて中には入れなかったものの、
美術研究部があった新サークル棟は中には入れた。
個別の部室にはカギがあって、中には入れなかった。
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なにか、自分と共通点を感じたYAHOO知恵袋の投稿があったのでコピーする。
YAHOO知恵袋 引用文
2016/12/26 0:13
1回答
サークルOBなのに部室に入り浸り、後輩と絡みたがる友人に注意すべきか
私は社会人で、友人は院生です。共に同じサークルに所属し、数年前に追いコンで引退しました。…と思いきや、その友人
はその後もサークルに残り、部室に入り浸っている様子です。最近、友人にサークルのグループLINEを見せられ「困った奴がいるんだ」と、サークル内トラブルの相談を受けました。その一連のやりとりを見ると、何とその友人が部長の様に振る舞っていました(「この問題については次の部会で話し合おう」など)
友人がOB の立場でサークルに介入し過ぎている事を過去に諌めたところ、反発され喧嘩になった事があります。またいざこざが面倒だと思うのと、活動するのは個人の自由と思い、注意するのを躊躇っています。
ただ、後輩からしたらうざいだろうなと思います。注意できるのは私しかいないと思います。
こんな場合、注意しますか?
引用おわり
違う人の人生ですが、このOBはまるで私のようです。
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学芸大の同窓会みたいなのがないのかなと思って調べてみると、辟雍会(へきようかい)というものがあった、さらに、その建物のしたに学芸大こども未来プロジェクトというものがあった。また、学芸の森プロジェクトというものがあった。
よくよく見ると、学芸の森保育園というものもあるらしい。
この団体がいったいどんなことをやっているのか、調べてみたいと思っている。
私の心はまだ、学芸大につながっていて、
心のアイデンティティの多くが学芸大に依存しているからだ。
だから、この団体がなにか、自分の人生と大きくリンクするような、そして、なにか私が居場所となれるような場所であった場合に、つながりを求めていくかもしれない。
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人生というのは、過去と現在、未来がつながって一つの道のようになっている。
私は、19歳の頃にセブンイレブンでバイトをしていて、そこで問題があって、辞めざるを得なかったのだが、
21歳で予備校に行ったとき、高久さんから、東京学芸大学に入ることを進められる。
私は当時、適当に、公立の広島大やら、静岡大やらを候補にしていたけれど、
将来、教員になるんだったら、東京学芸大学が良いという話で、それに乗って、それで、大学に入った。
私にとって大学は青春だった。
それは、これまでもなんども書いていたように。
そして、
今、卒業から19年が経って、、
この前、たまたま卒業アルバムを見ていたら、知っている人が同じ自治体で管理職をしていたり。
そして、
私は、
本当に、15年振りぐらいに、再び、大学の構内に入った。
そのときは、コロナでほとんど人が構内にいなかった。
私は、10月の涼しい中、
なぜか、大学の構内の空気を吸って、癒されたような、お帰りなさいと言われたような気分になった。
やはり、自分のアイデンティティはここにあるんだって。
大学に入る前、セブンイレブンで揉めごとがあてって、モラトリアムを辞めて大学生になったあとも、
大学は自分にとって、自分の大事なアイデンティティだったし、
ここしかな居場所だった。
大事なホームグラウンドだった。
児童福祉施設に勤務してから数年も、前田君が現役でいた数年はOBとして、ひっそりと、美研の部室にいさせてもらった。
それから、私は、児童福祉施設を辞めて、カナダの保育園に勤めて、
さらに、帰国してからは教員としてずっと務めることになる。
その間、大学とは15年間ブランクをあけて離れていた。
しかし、いま、こうやって考えてみると、
私の人生は、今後も東京学芸大学とのつながり無しには無いように感じられるし、
なにか、つながりを持てる場所を探しているようにも思える。