みんな違ってみんないい、の金子みすゝの詩や、私の嫌いな歌手集団の歌である、ナンバーワンよりオンリーワン。
これらの言葉が非常に心地よく響いた時代があった、とくに、ゆとり教育時代と言われた平成11年度改訂版の指導要領を使っていた時代がまさにそれであるが、(今も、以降期だが、厳密にはまだ11年度の改定の中だし。)
本当に、なんと嫌なものを文科省は提示してくれたのだろうかと思ってしまう。
(10年前)
ゆとり。
そんなにみんな楽になりたいの?
学生のうちにゆとりばっかり求めてるといいことないよ。
若いころの苦労は買ってでもしろって言ったじゃない。
教育を理解していないインチキ学者は、生徒にゆとりを与えれば個性が花開くものだと主張していた。
そうなの??
そうなの???
そうなの?????
結論からいいます。
ゆとりは、児童の学力を奪います。
そして、そうやって育った児童は、成年後に貧困な学力のために、ゆとりの無い生活を強いられます。
ゆとりは、個性をはぐくみません、個性の発育を阻害します。
ゆとりは基礎学力の定着を阻害します。
基礎学力の阻害は個性の発展を阻害します。
児童が素晴らしい作文を書いたとします。
しかし、その素晴らしい個性の裏には、着実な基礎基本の形成がなされているのです。
文法の習得、文字の獲得、語彙の獲得。
児童は文字、文法、語彙を獲得して、そののちに、自己表現としての作文や詩を発表することができるのです。
この反対はありません。
では、他の教科ではどうでしょうか。
図工、児童は絵の具や筆の使い方を知らないといけません。そして、混色の仕方、デッサンの物を見る見方など、さまざまな基礎基本を習ったのちに自己表現としての絵画を描くのです。
体育でもそうです。基礎体力のある児童ほど、自分の体を自由に表現することができます。
さて、基礎基本がその後の自由な個性の発言には重要であることが分かりました。
しかし、以前として、自由であることが児童の個性にとって大切だと考えている人がいるのです。我々教育者や親だけではありません、学者や官僚の中にもいるのです。
個性を美化しすぎて、個性さえあれば、何が劣っていても良いという極端な考え方はそろそろ止めた方がよいでしょう。
個性よりも基礎学力。
個性はそののちに、自然と開花していくものです。
オンリーワンより、ナンバーワン・・・いや、ナンバー上位10%くらい。
個性が認められるには、社会的にも上位にいなければいけない。
仕事上での地位。
能力。
社会的階級。
社会的に最低層にいる人間がどんなに個性を叫んでも、それは社会に響いていきません。
もし、自分がオンリーワンであることを叫びたいんであれば、少なくとも、会社の、学校の、同じ職種の上位ナンバー10%前後にはいないといけない。
何もできない人がケン玉ができるという一芸で大学に入学したという話を聞いたことがあるが、果たしてこの人は、入学後、何を大学で学習するのだろうか。
高校や予備校で基礎学力を身に付けていない人がそれ以上に高度な学習を身に付けていくことができるのだろうか。
それは疑問である。
そして、個性という言葉の意味を非常に狭小的に捉えているむきがある。
なにかができる、がイコール個性ではない。
特に、大学生となったら、卒業後にどのような形で社会に世界に貢献できるのかも考えなければいけない。
日本の国益を担うのは人材であり、人材を育成する場所こそ大学なのだから。