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賞味期限が過ぎてからたった3日で腐るレトルトハンバーグ?/嘘への対処

teriyakihannba-gu
今朝食べたのはこのてりやきハンバーグでした。
ローソン100で買ったものです。

なんですが、賞味期限が切れていました。
3日ですが。
レトルトなので、大丈夫だと思い、温めて食べることにしました。
普通、レトルトだったら3日だったら平気ですよね。?

電子レンジでチンしたのですが、食べてみると、口の中が酸っぱ臭くなるのです。

腐ってる?

一口はもう胃の中に入ってしまいました。
仕方ありません。

3日で腐るっておかしくないですか?
賞味期限は5月9日ですよ。
今日は5月12日。
もちろん、2011年のね。

今度は、賞味期限一日前のときに試してみようかと思います。
そのときも同じような腐敗が発生していたらクレーマーモードをONにしようと思います。

というか、3日過ぎで腐るということは、賞味期限1日前でもアウトの可能性ありますね。

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・・・・・・・・・・・・・・・

昨日は中国朋友とTELするつもりだったのだが、仕事で忙殺されて不可能となってしまった。
基本、平日は8時近くまで残業しているので難しい。
この仕事は忙しいですよ。
みんな残業しています。
楽でヒマな仕事だと思っている人がいるので困っています。
特に、民間で働いてる人は自分たちの方が忙しいと思っているので、「ヒマなんだから○○やってよー」と言われかねません。(直接的でないにせよ)

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子供が嘘をついたときの対応です。
よく怒ってしまうんですね。
怒鳴ったり。

でも、これって逆効果なんです。
北風と太陽の原理なんですが。

「なんで嘘をつくんだ!!!」
と、怒鳴ると、その時は反省するんですが、次回に生かされた反省につながらないことが多いんです。

逆に、同じようなパターンになったときに嘘を隠すようになるんです。

では、どうしたらよいのでしょうか。

実は、昨日、職場でこういう場面に出会いました。
子供がカンニングをしたわけです。

問題の答えを全て見て写していたのです。
それに私は気付いていました。
しかし、自分からそれをうちあけて欲しかったのです。

そういう場合は、
・個別に
・怒らず
・しかしながら、事実関係はしっかりと踏まえて

語りかけることが基本であるような気がします。

昨日がまさにその場面でした。
相手は明らかに視線をそらしながら話しているのです。
私は怒らないことを約束しました。
ついつい、怒りが胸元までやってくるのですが。そこは抑えます。

解答のミスプリの場所と写した場所が全く同じであることを指摘するとかんねんしたようでした。
解答の方が間違っているので、他の子たちは、その場所に×をつけるはずの場所なんですが、そっくりそのまま同じことを書いてきたのです。

「素直に言ってくれてありがとう。」
この一言を付け加えました。
相手もスッキリしたようでした。

しかし、何かしらの罰則は行うからねということは言いました。
これと、これと、これをやるようにと本人にも約束させました。

・・・・・・・・・・・・

嘘をついたときに怒るだけだと、子供は本当のことを言わなくなります。
逆に、監視国家みたいな感じになって、チクリばかりが増えていきます。
そうなると、雰囲気は悪くなります。


TVで見てたら泣いてたんで、負けたんでしょうか。???
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キモい考


↑↑これいいね。私も職場によく営業のしつこい電話がかかってくるんで使ってみます。

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キモいという言葉をよく聞きます。
子供からだけではなく、大人からも聞くことがあります。
この言葉を聞くたびに人の教養度を疑ってしまいます。

キモいという言葉は、非常に教養度の低い言葉なんじゃないかなと思います。
何気なく使っている子供には注意します。

キモいはもともと「気持ちが悪い」から派生した言葉なんだと思いますが、どうも、気持ちが悪いという意味だけで終始しているわけではなさそうです。

例えば、バスに乗って車酔いになったときに気持ちが悪くなりますが、この時は「キモい」とはあまり言いません。(人によっては言うのかもしれませんが)
普通に「気持ちが悪い」という方が多数派だと思います。

どうも、「キモい」という言葉のニュアンスには、「気持ちが悪い」という意味以外のニュアンスが含まれているようなのです。
例えば、人が鼻をほじっていたとします。この時に言う「お前キモい」は、「気持ちが悪い」に近いと思います。

しかし、別の場面でも「キモい」が使われることがあるのです。
例えば、複雑に細かく入り組んだ迷路画を見たときに「キモい」という人を見たことがあります。
また、細胞の顕微鏡写真を見て「キモい」ということもあります。
さらに、意味不明なハングルの文字が羅列された韓国の新聞を見て「キモい」という人もいます。

どうも、この「キモい」という言葉は、もともとの「気持ちが悪い」から大分意味が離れてしまっているようなのです。その証明に、風邪で気持ちが悪いときに「私ちょっとキモいです」とは言わないこともいえます。

この「キモい」という言葉にはどういったニュアンスが含まれているのでしょうか。

私はそれは「意味が理解できない」ということに行き着くのではないかと思うのです。
人は、そこで起こっていること・状態が理解できないときに「キモい」と言うのだと思います。
もちろん、不潔な物を見て「気持ちが悪い」という場合も多分にあります。
しかし、この「キモい」という言葉の半分ぐらいには、この「意味不明である」というニュアンスが含まれているのだと思います。

私自身、韓国語が全く分からなかった時代にハングルで書かれた長文を見て、「気持ちが悪いな」と思ったことがあります。
また、今は理解できますが、以前はC言語で書かれたソースコードを見て、同様に気持ちが悪いと思ったことがあります。
それらは一様に、「理解が不能である、意味が不可解である」ということを意味しているのだと思います。

では、この意味が不可解であるというところの「キモい」と、不潔な物を見たときの「キモい」は全く別なものなのでしょうか。

人間はそのものを見たときに、瞬時に腑に落ちないときに「キモい」を発します。
つまり、突然他人の排泄物を見せられたときに「キモい」を発します。
しかし、自分のそれを見たときに「キモい」とは言わないでしょう。
また、何の前触れも無くカブトムシを手の上に乗せられたら「キモい」というかもしれませんが、自分が丹精込めて育てたカブトムシであればそうは言わないでしょう。

このことから、人間は自分が瞬時に理解できない状況が発生した場合により多く「キモい」を発するのです。

私個人的になんですが、この「キモい」という言葉は好きではありません。
まず第一に、人を傷つけます。
「キモい」という言葉には相手のことを理解しようという思いやりが微塵にも含まれていません。
瞬時にも相手を排除し、理解の対象から外そうとするニュアンスが含まれます。
「あいつキモい」と言ったとき、恐らく言った本人にはその人間を理解してやろうという気持ちがほんの少しもあるようには思えないのです。

私は子供がこの言葉を発するとき、非常に嫌な気分になります。
冗談ならともかく、他者に言い捨てていくような場面に出くわすと本当にいたたまれない気分になります。

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子供がこの言葉を言ったとき、私は少なからず感じるのは、その子の心が安定していないのではないかということです。
受験、ストレス、思春期の心の揺れ、いじめ・・・、これらの要素(もしくは、それ以外)が子供の心を不安定にしている。そのため、安易に理解できるものにのみ傾倒する。理解の不可解なものは心の安定を揺るがす要素になるので、できるだけ排除する。
その心の働きが「キモい」という言葉になっているのではないかと思うのです。

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この世の中には理解の出来ないものはたくさんあります。
いやむしろ、理解のできないものの方が圧倒的に多いはずです。
そのことを大人が子供にどれだけ伝えているでしょうか。
もしくは、大人が「キモい」という言葉を安易に使っていないでしょうか。
「キモい」は「気持ちが悪い」の代用語ではありません。
瞬時に理解の対象から排除するという意味が込められています。

私は子供がこの言葉を発することの無いような仕事をしたいと思っています。
非常に知的レベルの低い言葉です。

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自動学習の部分を外しました。
サーバがキャパシティオーバーのエラーを出しています。
週末にその部分を調整して再びUPしてみます。

リクエストバステインα サロンやエステの施術では「禁じ手」とされる方法が遂に解禁!!【へるぴぃ~healthy&peace~】

今の楽を選ばない。


子供に英語を教える必要があるのか。
よくそういう話題が登ります。
そして、英語を教えること自体を批判する人がいます。
また、英語が得意で好きというだけで批判の矢先に立たされる人もいます。

私の近くの席の人もTHEご意見番みたいな人がいて、(多分自分で自分のことをそう思ってるんだろうけど)その人が喋ると周囲が「ごもっとも!」みたいな雰囲気になる。
その人も頑固なので、反対意見を言われても絶対に曲げようともしないし、下手をするととたんに機嫌が悪くなる。だから誰も英語賛成なんて言えない雰囲気を作り出してしまっている。

頑固者のご意見番様だから誰も反対意見を言い出せない。
中には英語が好きで頑張って研究している人もいるのに、そういった人の立場ってものを全く考えていない。

私は年配者っていうのは、職場の雰囲気を堅苦しくするのではなくて、もっと雰囲気を解きほぐすような役割をして欲しいと思っています。厳しいのは良いんですが、誰も自由意見を言えないような雰囲気を作るのは上手なやり方ではないと思っています。

その人の意見は、「英語を教えることで子供に苦労をさせている。英語なんて大人になってからやればすぐに身につく。」というもの。
その人自身は英語は話せません。

全く語学習得のメカニズムを理解せずに、自分の意見をゴリ押ししているのです。
なぜ子供が英語を学習しているのか。
今の日本の国際的な立場がどうなっているのか。
これからの日本を引っ張っていくのは誰なのか。
そして、英語の苦手な日本人が世界で戦っていくためには何が必要なのか。

全く考えてないのです。
今の楽を取って、将来の苦労を考えていないのです。

子供に苦労をさせているというのは間違いで、子供の頃にやった方が習得が楽だからやっているのです。
自転車と同じで、子供の頃に習得する機会を逃ししてまった人は、大人になってから苦労する分を多くするのです。だから、今子供に英語を教えているのは、ある意味「楽」をさせてあげているのです。
言語というのは子供の頃に学習した方が圧倒的に楽なのです。
その理論を全く無視して、自分の考えをゴリ押しして周囲を黙らせているのは賢い人のやることではありません。

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私は今の楽をとって、将来の苦労をしたくありません。
(だから、私も結婚しなきゃいけないのか??)
少なくとも、私はそう教えたいと思っています。
今の快楽のために生きるのではなく、5年後、10年後の自分のために生きるような生き方を子供にはするように教えたいと思っています。

非常に難しいことです。
子供には5年後、10年後なんて想像もつかないので。
でも、1週間でも、1ヶ月でもいいのです。

1日の中のある時間。
何かを勉強する。それは普段の学習とは違う何か。
絵を模写するとか。
英語を勉強するとか。
他の言語を勉強するとか。
もっと先のことを自学自習するとか。
なんでもいいのです。
自分の将来を見越して、将来に成長する自分のために毎日積み重ねていく生活態度を身につけて欲しいのです。
そのためには、最も身近な存在の親が大事だと思います。

それは詰め込みということではなくて、むしろ、積み重ねです。
あれもこれもということではなく、以前できなかったことが1日のうちで1時間、毎日やったら1週間後には出来るようになったという経験をより多くもってもらいたいのです。
つまり、やれば出来るという感覚をより多く経験するということです。

子供の態度は親の影響を受けますね。
特に幼いうちほど。
親が快楽追求的な生き方をしていると子供も影響されます。
子供と親は似ています。
驚くほど似ています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

最近なんですが、必ず朝ピアノとジョギングに各10分ずつは確保しようとしています。
忙しいとバタバタして、結局ピアノとジョギングをやらずじまいの日があったので、日記を書く時間を少し早めに切り上げてピアノとジョギングをやります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

朝、4時。
Perlのエディタに向かう。
非常に基本的な文法を徹底的に何度も書いて覚える。

#!/usr/local/bin/perl

$aaa=10;
$bbb=60;
$put=&keisan($aaa,$bbb);
print "Content-type: text/html\n\n";
print <<"HTML";
$put
HTML
exit;

sub keisan
{
local($a,$b)=@_;
$c=$a+$b;
return $c;
}

-- 実行開始 [>perl untitledb.pl]
Content-type: text/html

70

--- 実行終了 (0)
#!/usr/local/bin/perl

read(STDIN,$formin,$ENV{'CONTENT_LENGTH'});
$formin=~tr/+/ /;
$formin=~s/%([a-fA-F0-9][a-fA-F0-9])/pack("C",hex($1))/eg;
@indata=split(/&/,$formin);
foreach $tmp(@indata)
{
($name,$value)=split(/=/,$tmp);
$forminh{$name}=$value;
}

open(IN,"test.txt");
@aaa=;
close(IN);

unshift(@aaa,"$forminh{'name'},$forminh{'mail'}\n");

open(OUT,">test.txt");
print OUT @aaa;
close(OUT);

print"Content-type: text/html\n\n";
print <<"HTML";
input completed

name $forminh{'name'}

e-mail $forminh{'mail'}

HTML
exit;

--- 実行開始 [>perl untitledb.pl]
Content-type: text/html

input completed

name

e-mail

--- 実行終了 (0)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

明後日は中国語試験。
出来るだろうか。

それから、卓球のコーチから連絡が無い。
プログラマーの人からもメールが無い。
言語交換のウィリアム氏からもメールが無い。
連絡不通づくし。
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もとにすると、とは、1として考えること


こういう問題を教えてて気づくことがある。
「1袋にアメ玉が4個入っている、2袋ではいくつか。」
非常に基本的なかけ算の問題だ。

さて、式を書いてみよう。
4×2=8 答え 8個
でいいのではないでしょうか。

しかし、2×4=8と書くことも出来ます。
よくあることですが、
これはOKではないですよね。

なぜか?
1袋あたりに4個、それが2倍分を求めているのですから、単位量は4、その2倍分の8個を求めないといけないのです。
答えはアメ玉が8個なんだから、4×2=8の8は、アメ玉8個の8なんです。

2×4=8とやってしまうとおかしなことになってしまいます。
2袋を4倍していることになります。
答えは8袋。
袋は8個もありません。

実は、非常に簡単な問題ほど、落とし穴があって、これをないがしろにすると後で大きなツケになるんですね。
4×2=8が出来ないから2×4=8と式を書かせてはいけませんよね。
便宜上、頭の中で計算するときに逆にして簡単な方で計算するのはOKでも、立式の段階では4×2でないと。

さて、大きなツケってなんでしょうか。
実は、この段階から単位量の考えは始まってるんですよね。
単位量や密度、速度が難しいという子は、もっと前の段階から「ある量を1としてみる、その何倍はいくつか」と考える習慣が無かったんです。
だから、急に単位量などというわけの分からないものを提示されて困惑しているんですね。

しかし、そのツケの最初の最初の借金は実は、こんなに前の段階にあったのです。
「もとにする量」はなんなのか。
積はもとにする量の倍だし。
商はもとにする量の分数倍だ。

2×4と4×2は全く違う式だ。
その視点を今後何年間も持ち続けないと、単位量が出てきたときに大きなハードルとなる。

しかし、教える側もこの視点がスッポリ抜け落ちてしまっているところがある。

こういう問題を教えてて思うのは、文章題って大事だなってことです。
文章には意味がありますから。
単位量はアメ玉の個なのか、袋なのかを考える良い機会になります。

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車輪の再発明という言葉がある。

「この重たい砂袋を何十キロメートルも運ばないといけない。」
「では、そこの板に載せて両はじから持ち上げて運ぼう。」
「それでは疲れる。丸太が2本あるからそれに載せて転がそう。板をその上に載せればいい。」
「しかし、丸太の位置がズレるから、丸太を交互の入れ替えるのは大変だ。」
「そうだ、この大きさの同じ円盤を使おう。」
「この円盤の真ん中に軸をつけて、板の下につければ、円盤が回転するから楽に砂袋を運べるぞ。」
「すばらしい!」
「我々はすばらしい発明をしてしまったぞ!これからは苦労をしなくて済む!」
「さあ、このすばらしい発明に名前をつけよう。」
「そうだなあ、何がいいか。」

・・・・・

「おい、君たちなにを騒いでるんだ。おや?それは車輪かい。」

これが車輪の再発明だ。
開発の現場ではよく聞く言葉らしい。
一生懸命徹夜で考えたプログラムが、実はよく調べたら、どこぞの誰かがずっと前に書いていたというもの。
そういうのってよくあることですよね。

開発だけじゃない。
一生懸命思案してやったことが誰かの二番煎じだったことなんてよくあること。

研修会になんか行ってもそういうのよく見ます。
この研修。
どこかで見たな。
なんてこと。
でも、その研修を立ち上げるまでに何度も話し合いを重ねたんだろうななんて思ってしまうわけです。

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プログラムの話しにもどると、基本的な文法の勉強をしたらモジュールについても調べないといけないかな、なんて思ったり思わなかったりします。

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理系離れ・・・自分で考えることの大切さ。

ahiruguti2
↑↑、この人は芸能人ですか。
知りませんが、これが人工アヒル口らしいです。

人工アヒル口

この言葉、好きです。
なんか、人工無脳みたいな響きで、なんか良いですね。
ahiruguti
最近の芸能人はよく知らないんですが、わざと口角をW型に釣り上げて、アヒルの口みたいにするそうで、男性に可愛いと思わせる表情らしいです。

この、アホっぽい言葉に萌える。
人工アヒル口・・・、人工って。
人工って。
こ、この文化はなんなんだ。

いや、人工アヒル口をやってる人はなんか、見ててムカつきますけどね。
「お前、人工アヒル口やろ。」
って潰してやりますが。何か?

そういえば、人工新沼健二やってる人見たことあるわ。

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仕事柄、できないSTUDENTを居残り対応することがある。
補習というが。

とにかく、こちらが答えを教えるまで、自分で考えようとしない者もいる。

ヒントはいくらでも与える。
しかし、自分で考えてもらいたい。

こっちが答えを教えて、それを写して終わりではあまりにも学習としては意味が無い。

テキストやノート、色々なところにヒントや、答えにつながる考え方などが書いてあるのに、それを拾って読もうともしない。

こちらが教えてくれるまで待っているのである。

とにかく個別対応が必要な場合が多い。

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こんなことを経験したうえで、自分自身にも振り返ってみる。

プログラミングの勉強をしている。
基本、プログラミングは独学だ。
時々、学校にも行くが、基本的に独学でやってやるという意思が無い人が学校に行っても、得られる物が少ないことが多い気がする。

つまり、依存心が強いのだ。
依存心が強いと、学習は捗らない。
学校が教えてくれる、こういう発想の人は、いつまで経っても人が答えを教えてくれるのを“待つ”状態になっているのだ。

私自信も経験がある。
人が答えを教えてくれるのを待っているのだ。

たとい、どんなに情報が多くあっても、自分で考えて、試行錯誤して、答えを見つけようとするのは、脳にとって非常にエネルギーの要る作業だ。
答えを黒板に書いてもらって、それを写した方がどんなに楽なことか。

それは大人も子供も同じ。

脳の活動状態が高くないときは、自然、依存的になる。
または、バイスバーサ、裏を返せば、依存的傾向が強くなればなるほど脳の活動状態が低くなる。
自分が頑張らなくても他人がなんとかしてくれるんだから。

だから、私は突き放します。

「教えないよ。」
「自分でやんな。」
「早くやらないと夜になっちゃうよ。」

そして、教えてくれるのを待っている者を放置して、そこらへんの掃除を始めます。(実は、横目では、彼が作業を始めないかな・・・などと期待しながらチラ見しているんですが。)

自分でなんとかしないと、大変なことになる。
という、ある種、サバイバルな状態になると、人間の脳は咄嗟に活動状態を高める。
無人島にキャストアウェイされたときがその状態だ。
誰も食べ物なんてくれない。
自分で食べ物を探さないと死んでしまう。
脳はフル回転する。
キャンプ講座に行っても、何回習っても出来なかった火起こしが、その人はたった1日出来るようになるでしょう。学習したのです。

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理系離れという言葉がある。
この言葉から聞くイメージは子供が理科や数学を嫌いになったということだろう。

しかし、私はもっと広義に考えている。
子供が考えるのを嫌いになったのではないかと。
つまり、理科や数学だけではなく、自分で考えて文章を書く、論文などの類も子供は嫌になってきたのではないかと思うのだ。

つまり、理系離れというのは、自分で考えることが嫌になったという現象なんじゃないかと。
とすると、これは理科や数学に限った問題じゃなくなる。国語でも社会でも自分で考えなくなる。
考えるのが苦手になった。それが、考える作業を最も必要とする理系科目で強く表れた、そう考えることはできないだろうか。

そういえば、今の大学生は論文が書けないと聞いたことがある。
論理的に考えて文章を書けないというのだ。
そうなのだろうか。

私が大学生の頃は、まだインターネットが普及し始めたばっかで、私自身、大学2年生くらいまで、ネットはほとんどやってなかった。(児童館のアルバイトに勤しんだり、仲間と飲んだり、図書館で本を読んだり、絵を描いたりといたってアナログだった。)
ようやく、卒論を書くあたりで、バシバシとインターネットを使い始めた。プログラミングどころか、HTMLを覚えるのもそれより後のこと。

話は戻るが。
今の大学生には論文をネットのコピペで書く人がいるそうだ。
もちろん、それは一部で、大多数は真面目に自分で考えて書いているはずだと思う。そう信じたい。
しかし、コピペというある種の依存に陥ってしまうと、次第に脳の活動状態が低下していって、自分で考えるという作業が非常に億劫になってしまう。

これが、理系離れの正体なのではないだろうか。

自分で考えなくなる。

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私は依存という甘いインダルジェンスが脳の活動状態を低下させるのではないかと思う。
まるで、体から力を抜いてしまうマリュワナのように。
そうなると、自力で立てなくなる。

あらゆる場面で依存は付きまとうが、(これは仮説であるが、)私はあらゆる場面で自立している人間の方が、思考状態は高いのではないかと思う。
人間関係の依存、家族や親、実家への依存、金銭的、経済的な依存、薬物への依存、恋愛や性欲への依存。
こういったものへの依存が少ない人ほど、私は思考がシャープな人であるはずだと考えた。

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ルービックキューブを3人の中学生に与えたとする。

一人は、面の遷移のパターンを緻密にノートに書きだして法則を見つけ出そうとする。

一人は、ネットでツクダ式の解法をググって、それを見ながら6面完成させようとする。

一人は、人に聞いて教えてもらう。

結果的に6面完成したとしても、それぞれの思考活動の違いは明白だ。

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数学において、場合の数を学習する。
3つの物を並べた並び方は何通りか。

〇、△、☆

子供はこれを図を書いて調べていく。
いたって、具体的な操作だ。

答えは6通りだ。

ちなみに、〇と△だけの場合は、2通り。
〇、△と△、〇の組み合わせだけだからだ。

では、〇、△、☆、□の4つの場合は。
これも、図で書いて表すことができる。
答えは24通り。

では、〇、△、☆、□、▼の5つだと?
だんだん図を書くのがしんどくなってくる。
しかし、数学の良いところは、具体的に数えることにあるのではない。

1つだと1通り。
2つだと2通り。
3つだと6通り。
4つだと24通り。

では、5つでは?
ここで、もしかして、
1=1
2=1×2
6=1×2×3
24=1×2×3×4
と階段状に掛け算が増えているのではないかと発見し、では次は
1×2×3×4×5
なのではないかと、帰納的に法則を仮説し、当てはめてみる。

そして、ギリギリ作図可能な120通りの図を書いて確かめてみる。

仮説は証明される。
つまり、並び方は、個数の階乗通りだと証明されるのだ。

これが数学の楽しさであり、美しさではないだろうか。

現在の教育では、エレメンタリー段階では階乗や累乗は教えない。
しかし、子供が自然発生的に発見することはできるし、そこで発見した考えを「それは、高校で習うからまだやっちゃいけない!!」とは言えないだろう。
というか、中学や高校でやることだから、「発見しても、それを使っちゃいけない。」という発言自体が子供の理系離れをすすめていることに他ならない。

数学の楽しさは具体的操作にあるのではない。

具体から抽象を発見、帰納する美しさにあるのだと思う。
それを体験させる良い機会だし、発見したら、それは、今後の学習では、4!や5!と表すと教えるのはいっこうに構わないと思う。

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理系離れというのは、結局、理科、数学に限ったことではなく、他の学問でも同じ。
つまり、自分で考えなくなっているのだ。
それは、裏を返せば、脳の活動状態が低い状態が続いているのだ。

理由は、一つだけではないと思う。

親の理系嫌い。
食事のファーストフード化。
栄養不足。
運動不足。
睡眠不足。
将来への希望の無さ。
文系科目への美化、理系科目の軽視。
本を読まなくなった。
インターネットなどで、簡単に情報が入るから。

もしくは、脳の退化?

そんなことは考えたくないけど。

まあ、とにかく、
考えなくなる ←―――→ 脳の活動低下
と、悪循環が生まれますから。
キチンと考える習慣を身につけることが大事ですね。


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人が教えてるの見るの、勉強になるね。


Perlでプログラミングをやっているが、なかなか基本的なところで躓いている。
やはり、集中力を欠いているのだろうか。
プログラミングは、イコール考える力を試される作業。考えなければいけない。

もっと強い人工無脳を作るぞ。
近いうちに。
まずは、形態素解析を導入しなければ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今考えていたのだが、日本人学生の理系離れ。
理系離れは、つまり、考える力がなくなっているということだ。
なんだか、日本には、答えが一つでは無いということで文系を称賛する傾向がある。
数学は答えが一つでつまらないなどということを言う人がいるのだ。
私たちの業界においてですら!

理系科目をもっと教えていかないと、子供が自分で考えなくなる。

今やってるところ、数学系科目で、子供が脱落するターニングポイントがいくつかある。

1、繰り上がり、繰り下がり
2、九九
3、割り算
4、分数

それと、軽く扱ってはいけない概念としては、「もとにする量」を「1として考える」という概念。
5年で出てくるが、これはこれからずっと付きまとう概念なので、きっちりおさえないとイケナイ。

あと、意外に躓くのが、( )かっこ、を使った計算の工夫。
□×△+〇×△ = (□+〇)×△
これを利用して、長方形の面積を求めるのなんかがなかなか出来ない。

それから、場合の数。
はっきり言って、累乗とか、階乗で求めるやり方を教えてしまいたい衝動に駆られてしまう。
パターンが5!以上の場合になんか、はっきり言って図に書けない。
しかし、いつかは、具体的操作から抽象化へのステップを踏まなきゃいけない。
いつまでも4!までの問題をやっていても面白くないし、数が大きくなったら解けないなんて、数学的じゃない。
だって、応用が効くのが数学じゃない。
何か法則を見つけて、どんなに数が大きくなっても解ける。これが数学でしょ。

階乗なんて、概念的には6年でも理解できるし、教えた方が、解ける問題のパターンも増える。
教えたい。教えたい。教えたい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ところで、なんでエレメンタリーでプログラミングを教えなくなったのだろう。
昔は、BASICとか教えたと思うんだが。
今、BASICを教えるのは実用的じゃないので、パイソンでも、HSPでもいいと思うんだけど。
もちろん、JavaでもC言語でもPerlでも良いんだが。

考える力を身につけさせることをもっと考えてもらいたい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

昨日は、深酒の後遺症が出て頭がボーっとしていた、なんか、こう、現実離脱感があって、違う自分がスクリーン越しに世界を見ているような感覚があった。


ドクター自慰





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そして平和になり、孫悟飯は弱くなった

eniac
いささか、反論のでる意見を敢えて言うかもしれない。
人間の歴史における戦争の意味。

戦争はその存在を肯定することはできない。
しかし、人類の歴史において戦争が結果的に果たした意義は非常に大きい。

結論を言うと、戦争が人類を大きく進歩させた。
これは皮肉にも的を得ている。

人類を進化させるのは何だろうか。
愛、平和、ふれあい、慈悲の心・・・。
残念ながらそういったものではないのだ。

人類を進化させたものは、「恐怖」だと思う。
恐怖こそが人類(もとい、全生物)を進化させたものの根源だ。
そう私は思っている。
恐怖とまでいかなくてもよいだろう、ある種のストレス、外圧、もしくは淘汰圧といったものだろうか。

人類が第一の火を発明したのはいつだったろうか。
人類がまだ洞窟の中で、外からの恐怖、肉食獣からの攻撃に怯えながら生活していた頃、人類はその恐怖を克服するために火を発明したのだ。
火は人間を進化させた。
火は人間を獰猛な恐怖から守ってくれるだけでなく、暖を与え、調理する技術も与えた。

もし、人類が外的のいない平和な世界に住んでいたら、この発明は無かったかもしれない。

さて、人類はその後の長い歴史において、数多くの発明をしてきた。
文字、印刷機、火薬、通信機器、ロケット・・・・・。

その中には、人類の文明のパラダイムを大きく転換させるような発明も多い。

発声言語
筆記文字
原子力
コンピュータ
ロケット
インターネット

レイカーツワイル氏は、このようなパラダイム転換を引き起こすような発明が起こる時期を「技術的特異点」と言っている。

私は人間の技術的大発展の背景に戦争がかなりの割合で関わっていると思う。
世界で最初のコンピュータは、ミサイルの弾道を計算したり、暗号を解読するための機械であった。
もちろん、それらは戦争のための道具であった。

冷戦中は米ソがお互いを牽制しながら、ロケットや宇宙開発をすすめた。

実は、このインターネットもアメリカの国防総省が、核攻撃から電子データを守るために、分散ネットワーク化したのがその発端なのだ。

戦争が技術発展に寄与した例は多い。
逆に、ダイナマイトのように技術が戦争によって悪用された例もある。

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もう一度問う。
人間を進化させるものは何か?
愛、ふれ合い、慈善、慈悲、ぬくもり???

違う。

人間を進化させるものは、ストレスであり、プレッシャーであり、恐怖であり、競争なのだ。

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受験競争で子供が自殺!
可哀そう!
競争なんか止めるべき。
みんな平等だ!!
運動会の徒競争も辞めよう!!
みんなで手をつないで走るんだ。
勉強時間も減らそう。
そうだ、ゆとりが大事なんだ。

そうだ、そうだ。
みんな、あの歌をうたおう!

「ナンバーワンにならなくても良い~、もともと特別なオンリーワン~~♪」

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今日のニュースです。
「日本の国際競争力が17位から27位に急落しました。」
「日本は新興衰退国と呼ばれています。」
「アジアの各国では受験競争が激しいそうです。」

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なんか、教育の世界でも未だに、個性の大切さが高らかにうたわれている。
確かに、個性は大事だよね。
でも、個性って何?
個性って、もともと人間が誰でも持ってるものなんじゃないの?

あれ?
あ。
そうだね。

もともと特別なオンリーワンなんだ。

「でも、それで競争に勝てる?」
「・・・・・・・・。」
「オンリーワンだから、年収150万円でも、老後も心配ない?」
「僕、けん玉できるけど、この個性で大学に入れないかな?」
「入れてくれるおかしい大学もあるけど、勉強しないで入って授業についていける?」

10年後のゆとり撤廃。
今度は基礎学力が大事、だとか言い出す始末。
何を当たり前なことを今さら言ってるんだ。

そうしたら、既に痛々しく死後化しつつある言葉
「生きる力」
結局、この言葉の定義はなんだったんだ。
今さら誰も使いたくない言葉なんじゃないか。

オンリーワンは、なろうとするものじゃなくて、もともとそうなの!

ナンバーワンを目指すから進歩があるんでしょ!!!

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ENIACについて資料をあげます。ウィキペディアのコピペです。
//以下WIKIコピペ
ENIACは、17468本の真空管、70000個の抵抗器、10000個のキャパシタ等で構成されていた。幅24m、高さ2.5m、奥行き0.9m、総重量30トンと大掛かりな装置で、設置には倉庫1個分のスペースを要した。消費電力は150kW。開発費の総額は49万ドル。

現在のコンピュータは二進法で計算を行うものがほとんどだが、ENIACは内部構造に十進法を採用した。符号付き10桁の演算が可能で、毎秒5000回の加算、14回の乗算が行えた。20個の変数と300個の定数を記憶するメモリをもち、フロッピーディスクなどの外部記憶装置は備えていなかった。

また、ENIACでは、プログラムは、人が配線をすることにより行われた。これは現在のコンピュータの仕組みとは異なる部分である。→ プログラム内蔵方式参照。

ENIACの開発は約2年間におよび、開発の中心はジョン・エッカートとジョン・モークリーであった。ENIACは、当初、アメリカ陸軍の大砲の弾道計算を目的につくられた。ENIACが完成する前に第二次世界大戦が終結したため当初の目的は達成できなかったが、その後も開発は続けられた。
//以上WIKI


フレッシュライト モカバット




Mocha Buttはアナルを形どったジェルインサートで、かなり窮屈な挿入口から、奥まで続く「アナル型ジェルインサート」は、ペニスによりタイトな快感をもたらします。素材で使用されているMochaは、ネットリとした感触がとても気持ちよく、Pinkよりも好んでいる方が多くおられます。

2つの相乗効果は、あなたにより大きな快感の波をもたらします!


◆ギターのトップ・ブランドとして世界中で多くの音楽家に愛され、エピフォンを筆頭に、多くの楽器ブランドを傘下に持つ“ギブソン”の歴史は、1890年代、創始者であるオーヴィル・ヘンリー・ギブソンがミシガン州カラマズーに開いた楽器店から始まりました。
その後、1902年に“Gibson Mandolin Guitar Manufacturing Co., Ltd”を設立。オーヴィルの死後も業績を伸ばし、1936年に初のエレクトリック・ギターES-150を発表。1944年にCMIに買収されたのち、1950年にテッド・マッカーティーが社長に就任してからは、1952年に登場したレス・ポールを始め、ES-335、フライングV、エクスプローラー、SGなど、現在多くのコピー・モデルの元となったオリジナル・ギターの名機たちを誕生させました。

gibson
現在、ギブソン工場は、アメリカ、テネシー州のナッシュビルとメンフィスにエレキギターとベースの工場が、また、モンタナ州にアコースティックギターの工場があります。そこでは、古くから使われる機器とともに最新の機器を取り入れ、伝統的なモデルから、新しいモデルまで、次々と生産されています。
楽器販売大手、石橋楽器のWEB-SHOPです!

仕事にアイデンティティは感じてないが・・・

語りかける高校数学 数1編語りかける高校数学 数1編
(2006/09)
高橋 一雄

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仕事にはアイデンティティは全く感じてない。
Teacher扱いされると、少々、イラっとくる。「お前は、teacherだろ。」とか、「Teacherなのに~~だろ。」とか言われると多少不愉快を感じざるを得ない。

職業と自己アイデンティティが同一と考えるのは視野狭窄的で嫌だ。

「Teacherなのにアンパンマンが嫌いというのは~~だろう。」
というのは、私の人格を矮小化しているだけではなく、更に、Teacherというプロフェッションを矮小化しているようで、只ならぬ不愉快さを感じた。

KIDSは好きではない。
五月蠅いほかない。
しかし、天才の芽を持ったKIDSは良い。

私の定義する天才とは、「万人皆天才」とかいう生易しいものではない。
アンパンマンを推奨している文科省が言う「生きる力」なぞという、中身の無い、不明瞭な「なんとなく皆持ってる能力」ではなく、本当の天賦の才能。

私のフィルターはかなり厳しいよ。

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そこで本題。
私のプロフェッションはTEACHERだが、命はかけてない。アイデンティティでもない。

しかし、天才を育ててみたいと思ってる。
知的好奇心を引き出すのは得意なので。

一人の10 YEARS OLD BOY が私にチャレンジしてきたのである。
しかし、所詮10 YEARS OLD。
そのチャレンジというのが、円周率を何ケタ言えるかというものだったのだ。

私は100ケタ目指して覚えてた時期があったので、普通に40ケタくらいまでスラスラと言ってたら、
その10YEARSOLDが、

「負けた・・・。」

勝つつもりだったのだろうか。

しかし、この時、私の中で閃いたものがあった。
「これだ!」

私は、中学の参考書を取り出して、
4、5、6GRADERSたちに教えてみた。

これがことのほか受けた。

「なるほど。」

累乗、平方根、一次方程式、二次方程式・・・・
他にも、三平方の定理、中点連結定理や二進数、十六進数などもすでに教えている。

教える順序と方法さえ間違えなければ、理解するし、案外乗ってくるものだ。
しかも、知れば知るほど、もっと知りたいという欲求が高まるようだ。

最近は、できる子を引っぱり出して、高レベル教育を施している。
もちろん非公式に。
中、高校生が嫌々でやっているようなことを休み時間をつぶしてでも教えてもらいに来ているから感心してしまう。

将来のフォンノイマンやアランチューリングを輩出してみたいという想いがある。
そのうち、プログラミングを教えてみたい。

教育の話題⑥

格差社会と教育改革 (岩波ブックレット)格差社会と教育改革 (岩波ブックレット)
(2008/06)
苅谷 剛彦山口 二郎

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幼児教育の無償化を明記…自民公約案が判明

 自民党の衆院選政権公約(マニフェスト)案の全文が28日、明らかになった。

 今後4年間で3~5歳児の幼児教育を無償化すると明記したほか、返済義務のない給付型奨学金の創設などを盛り込んだ。

 財源に関しては「消費税を含む税制を見直す準備を進める」とした。

◆公明「所得に応じ授業料減免」◆

 公明党は、高校授業料を親の所得に合わせて減免し、給付型奨学金も創設する。貸与型も残し、無利子や返還免除の対象者を広げる。大学ごとの受給枠を廃し、希望者全員に貸与できるようにする。

 ◆共産「貸与型奨学金を無利子に」◆

 共産党も給付型奨学金を創設し、就学の難しい生徒を支援。貸与型の奨学金はすべて無利子に。国立大で授業料減免の対象を拡大する。私立大生への助成で負担を減らす。

 ◆社民「公立校入学金など無償化」◆

 社民党は、公立高校の入学金、授業料を無償化し、給付型奨学金を創設する。

 ◆国民新「国立大授業料引き下げ」◆

 国民新党は、高校授業料を無償とし国立大の授業料を引き下げる。給付型奨学金も作る。

 ◆改革ク「教員採用の年齢制限撤廃」◆

 改革クラブは、給付型奨学金を設け、教員採用の年齢制限枠を撤廃する。

 ◆新党日本「社会人教育の費用控除」◆

 新党日本は、社会人教育にかかる費用を税控除対象とする。

(2009年8月5日06時24分 読売新聞)


自民党は景気回復後の消費税増税を社会保障制度の財源にするつもりらしいです。
そろそろ良いんじゃないでしょうかね。

教育の話題⑤

欲ばり過ぎるニッポンの教育 (講談社現代新書)欲ばり過ぎるニッポンの教育 (講談社現代新書)
(2006/11/17)
苅谷 剛彦増田 ユリヤ

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全国学力調査の結果を分析したところ、保護者の収入が多い家庭、教育支出が多い家庭ほど子どもの成績がよくなる傾向があることが、文部科学省がお茶の水女子大学に委託した調査で確認された。年収によって正答率に最大約23ポイントの差がついたほか、塾や習い事などの支出が「ない」という家庭と「5万円以上」という家庭では、最大約27ポイントの差がついていた。

 保護者の収入と子どもの学力の関係について、国が具体的に分析、公表したのは初めて。東京大学の調査でも収入で大学進学率に大きな差があることが確認されており、教育費の公的負担のあり方が一層議論になりそうだ。

 調査は、お茶の水女子大の耳塚寛明・副学長(教育社会学)の研究班が昨年度、約6千人の小学6年生について実施。保護者にも年収をたずねて相関関係を分析し、4日、結果を公表した。

 それによると、国語のA問題(知識中心)は年収200万円未満の家庭の子どもは正答率が56.5%にとどまったが、年収が上がると、正答率もほぼ右肩上がりに上昇。1200万円以上1500万円未満の層は78.7%に達した。国語B(知識の活用中心)、算数A、算数Bでも傾向は同じで、年収によって最大約20~23ポイントの差があった。

 ただし、年収が最も多い区分の1500万円以上では、1200万円以上1500万円未満の層に比べ、四つのテストすべてで微減。0.3~1.4ポイント下回っていた。

 研究班は、年収が同レベルの中で比べて、成績が良い子どもに共通するものがあるかどうかも分析。「保護者がニュースについて子どもと話す」「小さい頃に絵本の読み聞かせをした」「家に本がたくさんある」などの項目が当てはまったといい、「幼児期から学校の学習になじみやすい家庭環境をつくることが重要だという示唆」「経済環境による学力差を緩和するカギを握っている」と指摘している。(上野創)

~~朝日新聞~~

家庭の経済力が子供の学力に比例するというのはかなり予測できることですよね。
私も、昔、養育を放棄された子供をケアする仕事をしていましたが、そういった、養育環境上ハンディを抱えた子供は概して学力が低いですね。親のネグとまではいかなくても、生活レベルが低いと子供の教育にまでは手が回らない。
子供は親にかまってもらわないと落ち着きませんから。親が仕事につきっきりでほったらかされると生活態度にも表れてくる。
生活態度がしっかりしていないと集中力が養われませんから。
それと、乱雑、食事の乱れ、夜更かし、不潔は学力の低下と関係していると思いますよ。

教育の話題④

受けてみたフィンランドの教育受けてみたフィンランドの教育
(2007/09)
実川 真由実川 元子

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新聞に教育を /長野
 「人の人生を左右するのは怖い。かかわりたくない」「上手に向き合えば、世の中の平和につながる」

 長野市内で開かれたNIE(教育に新聞を)全国大会に参加した。市立吉田小学校は裁判員制度を学ぶ社会科の授業を公開し、6年生が考えを述べあった。難解なテーマへの挑戦。研究討議では「裁かれる側の見方も大切」との指摘もあり教育現場の意欲を感じた。

 大会では、教諭側から「記者もNIEを学ぶべきだ」「教材として扱いやすい記事を書いてほしい」などの注文も寄せられた。教育に堪える質の高い新聞作り。「新聞に教育を」と心がけたい。(郎)

~~毎日新聞~~

NIE(Newspaper in Education=「エヌ・アイ・イー」と読みます)は、学校などで新聞を教材として活用することです。1930年代にアメリカで始まり、日本では1985年、静岡で開かれた新聞大会で提唱されました。その後、教育界と新聞界が協力し、社会性豊かな青少年の育成や活字文化と民主主義社会の発展などを目的に掲げ、全国で展開しています。


裁判員制度は6年生には難しい話題ですね。
大人でも、できれば関わりたくないんじゃないでしょうか。
人の人生に関わることですから。

しかし、誰が可哀想とか、誰がヒドイといった主観的な他者批判を超えて、
誰がどのような罪を犯したから、このような制裁が妥当だという、客観的判断ができるようにならなければ、人は裁けないという人間にとってのひとつの課題でもあると思います。
NIEを通して6年生がここらへんのことを学んでくれれば大きな成長だと思いますが。


やはり、6年生には主観的な感情と、客観的な評価は違うということに気づいてもらいたいです。
いじめや、仲間外れ、辛辣な他者批判、これらは、主観的な感情や想いが、相手の人間性の評価とイコールになってしまっているから起こるんだと思います。
つまり、
あいつはキモい(例えば、アトピーだから、チビだから、きつ音・・・・、)だから自分よりも劣っているんだという感情です。
こういった主観的な感情は、人間の客観的な他者評価をマヒさせてしまいます。

自分がどう思おうが、客観的な人間への評価は、それを超えたところにあるということです。

教育の話題③

学校って何だろう―教育の社会学入門 (ちくま文庫)学校って何だろう―教育の社会学入門 (ちくま文庫)
(2005/12)
苅谷 剛彦

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全国学力調査の分析結果が4日発表され、年収が多い家庭ほど子どもの成績が良くなる傾向があることがわかった。塾や習い事などの学校外教育への支出に、学力との相関性があることも示されている。

  日本とは異なる教育環境を持つ米国人の目には、日本の教育制度はどのように映るのだろうか。日本で英語を教えるブロガーLeslieは、日本の塾や学校についての考えをブログに綴っている。日本の中学生の通塾状況を「強制的なものではないが、勉強ができる生徒からそうでない生徒まで、多くの子どもたちが高校受験のために塾に通っているようだ。生徒たちは学校が終わった後に部活動をし、自宅で夕食をとってから塾へ通う。塾からの帰宅後に宿題をするため、寝るのは夜中になってしまう」と説明し、「米国には日本のような塾がないと話すと、生徒はもちろん教師にも驚かれる」と記している。
~~SERCHINA~~

同氏は日本には落第制度が無いことにも驚いている。
落第制度が無い為に子供が救われるかと思いきや。学力がついていかなくても進級できてしまうために、学習内容が分からなくても自動的に次学年に進級してしまう。
学習についていけない児童・生徒は教室で黙っているか、授業妨害をするかという逸脱に走るのだという。

そうですよね~、今は時間がきつきつで教えてますから・・・・、1日でも休んじゃうと、家で自習でもしてもらわない限りついてこれなくなっちゃう。
まして、不登校なんて起こされちゃったらフォローが大変。
自宅学習では、学校で教えていることをそのまま学習するなんてほぼ無理だし。(親が教師とかならね・・・・)


しかし、まあ、子供のころ勉強ができなくても、大人になってからどう転ぶか分からないですよ。
私も、高校のときは英語なんてボロボロでしたけど、大人になってから英語学習に火がついて、今では自称バイリンガルですから。(藁

教育の話題②

本気の教育でなければ子どもは変わらない (シリーズ教育を考える)本気の教育でなければ子どもは変わらない (シリーズ教育を考える)
(2003/10)
原田 隆史

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マニフェスト点検「教育」…支出割合、日本は最下位
 国が教育にいかに力を注ぐかを測る指標に、経済協力開発機構(OECD)が、2005年の国内総生産(GDP)を土台に、各国の公財政教育支出の割合を比較したデータがある。

 日本は3・4%で28か国中最下位。平均は5・0%で1・6ポイント下回った。文科省によると、GDP5%は約25兆円で現在より約7兆円の上積みが必要という。

 自民党はマニフェストに「OECD諸国並みの公財政教育支出の確保を目指す」と明記。民主党も公約とは別に先月発表した政策集で対GDP比5%に高めるとした。自民党は幼児教育の無償化などを挙げたが、予算拡充の時期や財源を具体的に説明していない。

 民主党は子育て支援で、中学まで年31万2000円を支給する「子ども手当」(5・3兆円)を創設。この多くを教育費と見なせば目標に近づくが、財源を確保しているとは言い難い状況だ。

(2009年8月5日06時27分 読売新聞)

OECDとは

OECD加盟国

(1)EU加盟国(19か国)
 イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フィンランド、スウェーデン、オーストリア、デンマーク、スペイン、ポルトガル、ギリシャ、アイルランド、チェコ、ハンガリー、ポーランド、スロヴァキア。

(2)その他(11か国)
 日本、アメリカ合衆国、カナダ、メキシコ、オーストラリア、ニュー・ジーランド、スイス、ノールウェー、アイスランド、トルコ、韓国。  

OECDの目的
 OECDは、先進国間の自由な意見交換・情報交換を通じて、1)経済成長、2)貿易自由化、3)途上国支援(これを「OECDの三大目的」といいます)に貢献することを目的としています。

教育の話題①

教育力 (岩波新書)教育力 (岩波新書)
(2007/01)
齋藤 孝

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携帯電話:「小中学生所持禁止を」 西郷村PTA、教育長に提言 /福島
 西郷村PTA連絡協議会(金田稔会長)は、「小中学生に原則として携帯電話を持たせる必要はない」との意見を「協議会提言」としてまとめ、4日、同村の加藤征男教育長に報告した。県教委は4月から、県内の公立小中学校に児童生徒が携帯電話を持ち込むことを認めていないが、同連絡協議会は学校以外での所持禁止も打ち出した。こうした厳しい提言は他にあまり例がない。近く、会員に連絡して協力を呼び掛ける。

 提言では、「発達未熟な小中学生に持たせると、興味本位に走り、相手の顔を見て交わす豊かなコミュニケーションが失われる。携帯電話に有害性や危険性がある現状では所持の必要がない」としている。

 金田会長は「親が携帯電話を持たせるのは連絡のためというが、現実的に子供はメールやゲームをし、インターネットサイトへ接続したがる。連絡を取る方法は他にもある」と話している。

 同連絡協議会は昨年7月から、携帯電話所持について学校単位で対応を協議してきた。一方、同村教育委員会は今年2月、学校への携帯電話の持ち込みは原則禁止を指導している。【和泉清充】

~~毎日新聞より~~


小中学生に携帯電話は要らないでしょう。
家庭では子供は家族と顔を合わせて話す物。
学校では先生の話を聞く物。
それを、家に帰ってきて、部屋でプチプチとメールを打っていては、子供が家族との会話の時間を持つことができない。
子供は家族と会話をすることで、大人からいろいろなことを学ぶ。
そして、大人を尊敬するようになる。
メールを全く禁止にする必要はない。
しかし、時間を限って、この時間だけ。というようにしないと、延々と部屋でプチプチやっているのを容認してしまうと、子供が大人と話さなくなってしまう。

個人的には子供には携帯電話は禁止、賛成。
必要ないよ。
もしくは、必要なときにだけ貸す。
常時持たせてはだめ。

みんなちがってみんないい??NO.1よりオンリー1??

ゆとり教育から個性浪費社会へゆとり教育から個性浪費社会へ
(2004/01/10)
岩木 秀夫

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みんな違ってみんないい、の金子みすゝの詩や、私の嫌いな歌手集団の歌である、ナンバーワンよりオンリーワン。

これらの言葉が非常に心地よく響いた時代があった、とくに、ゆとり教育時代と言われた平成11年度改訂版の指導要領を使っていた時代がまさにそれであるが、(今も、以降期だが、厳密にはまだ11年度の改定の中だし。)

本当に、なんと嫌なものを文科省は提示してくれたのだろうかと思ってしまう。
(10年前)
ゆとり。
そんなにみんな楽になりたいの?

学生のうちにゆとりばっかり求めてるといいことないよ。
若いころの苦労は買ってでもしろって言ったじゃない。

教育を理解していないインチキ学者は、生徒にゆとりを与えれば個性が花開くものだと主張していた。
そうなの??
そうなの???
そうなの?????

結論からいいます。
ゆとりは、児童の学力を奪います。
そして、そうやって育った児童は、成年後に貧困な学力のために、ゆとりの無い生活を強いられます。
ゆとりは、個性をはぐくみません、個性の発育を阻害します。
ゆとりは基礎学力の定着を阻害します。
基礎学力の阻害は個性の発展を阻害します。

児童が素晴らしい作文を書いたとします。
しかし、その素晴らしい個性の裏には、着実な基礎基本の形成がなされているのです。
文法の習得、文字の獲得、語彙の獲得。
児童は文字、文法、語彙を獲得して、そののちに、自己表現としての作文や詩を発表することができるのです。
この反対はありません。

では、他の教科ではどうでしょうか。
図工、児童は絵の具や筆の使い方を知らないといけません。そして、混色の仕方、デッサンの物を見る見方など、さまざまな基礎基本を習ったのちに自己表現としての絵画を描くのです。

体育でもそうです。基礎体力のある児童ほど、自分の体を自由に表現することができます。

さて、基礎基本がその後の自由な個性の発言には重要であることが分かりました。

しかし、以前として、自由であることが児童の個性にとって大切だと考えている人がいるのです。我々教育者や親だけではありません、学者や官僚の中にもいるのです。

個性を美化しすぎて、個性さえあれば、何が劣っていても良いという極端な考え方はそろそろ止めた方がよいでしょう。
個性よりも基礎学力。
個性はそののちに、自然と開花していくものです。
オンリーワンより、ナンバーワン・・・いや、ナンバー上位10%くらい。
個性が認められるには、社会的にも上位にいなければいけない。
仕事上での地位。
能力。
社会的階級。
社会的に最低層にいる人間がどんなに個性を叫んでも、それは社会に響いていきません。
もし、自分がオンリーワンであることを叫びたいんであれば、少なくとも、会社の、学校の、同じ職種の上位ナンバー10%前後にはいないといけない。

何もできない人がケン玉ができるという一芸で大学に入学したという話を聞いたことがあるが、果たしてこの人は、入学後、何を大学で学習するのだろうか。
高校や予備校で基礎学力を身に付けていない人がそれ以上に高度な学習を身に付けていくことができるのだろうか。
それは疑問である。
そして、個性という言葉の意味を非常に狭小的に捉えているむきがある。
なにかができる、がイコール個性ではない。
特に、大学生となったら、卒業後にどのような形で社会に世界に貢献できるのかも考えなければいけない。
日本の国益を担うのは人材であり、人材を育成する場所こそ大学なのだから。

未成年を叱れない大人たち

toshokan
自分にとっての聖地、
最も大切な場所、

図書館

書斎を持たない私にとって、図書館の存在は私の生活の中で大きな位置をしめる。
知りたいことが全て調べられて、落ち着く環境。
そのため、図書館には毎週2回ずつ行っています。

しかし、最近、図書館で良くないことが起こっているのだ。
自習室というのがある。
図書館の本を静かに読んで学習するための部屋だ。
もちろん、飲食、会話厳禁。

最近、図書館に行ってから気づいたこと、
中学生や高校生が図書館に行って、自由に私語を楽しんでいるということ。

非常にうるさい状態が時折あります。

図書館の職員にも頼みますが、なかなかうまくいきません。

イヤープレーン 3個セット





で、今日も、例によって図書館で勉強をしていたのですが、
やはり中学3年か高校1年の連中がやってきて、図書館を我が物顔!
好き放題騒いだり、飲み食いしたりしているのである。
誰も注意しない。
職員も。

私は我慢していた。
・・・・
怒るなんて大人気ない。

・・・・
相手は他人だし。
・・・・

しかし、相手の騒ぐ声の大きさ、遠慮のなさから、がまんができなくなってきた。
だめだ、怒ろう。

おいっ!、 うるさいんだけど・・・・・。

非常に短く、単純で、分かりやすい。
太く、低い声で、ゆっくりと。
やさしさの無いその声に、中高校生たちは、だまって学習しはじめる。

その子たちだけではなく、一瞬、図書館中が静まり返ったような静けさになった。
他の図書館の客たちもびっくりしていたようだった。

いずれにしても、私の考えはこうだ。

たとえ他人であっても、社会のルールやモラルを守らない場合には、注意しなければいけないということ。

英語教育はどうあるべきか


『スピードラーニング英語ジュニア』




「教育新聞」を読んでいて、時々、「うん?」「あれ?」と思うような論考を目にすることがある。
それだけ自分に批判意識があるからなのだと思うが。

英語教育(外国語活動)について、「英語だけで行われる英語活動に警鐘」などという一文を目にしたことがある。
そこに書いてあった内容を要約すると、

「英語だけで行われる英語活動は、児童にとって難解すぎ、理解のできない児童にとってはハードルが高く、一種の飽きを招くもとになる、だから、英語活動はもっと日本語で行われて良いはずだ。」

という意見だった。
私はこの論考を読んで「うん?」「あれ?」と思ったのである。
おそらくこの文章を書いた人は、人間が新しい語学を習得するプロセスを正しく理解していないのだろう。
それは、「日本語で教えれば易しいから児童がついてくる。」という発想から垣間見える。


昨日も、他の職員と活動内容について話していたが、
「子供たちはまだ、This is a ooo.までしか習ってないんで、He has a ooo.という質問はしないで欲しい。」
と言うのである。

私は習ってないから理解できないとか、習ったから使えるとかいう、学習即習得説は語学学習にはそぐわないのではないかと思っている。
つまり、習っていなくても直観的に言われていることが分かる、そういう状態になるように導くのが語学教育だと思っている。

習っていない言葉でもどんどん話して聞かせること。
これが最も重要なことだと思う。
これは算数、数学の学習とは反対の考え方だ。
算数や数学では習ってないことは答えられない。

しかし、英語は習っていなくても、推論や文脈理解、長く英語に触れていることによって習得される、言語の中にある法則性の獲得による直観的な理解によって、本来習っていないことでも理解できるようになるのだ。

考えてみればよい、外国人の子供に、
「This ole man, he plays one, he plays nick nack on the thumb with the nick nack paddy wack a gives a dog a bone, this ole man comes rolling home.」
を歌ってみる。
有名な歌で、欧米の子供だったら誰でも知っている歌だ。
しかし、この歌の中に含まれている単語や言い回しは3、4歳児はまだ学習していないはずである。
nick nack, paddy, wack, rolling home・・・など意味を聞かれてもおそらく分からないかもしれない、なぜなら、その意味を習っていないからである。
しかし、彼らはその歌の意味するところ、物語性を直観的に理解する。
それは彼らが日常英語に長時間触れているために、英語に対する直観力が養われているのだ。

我々も、英語活動を行う際は、習った、習ってない、もしくは、知っている、知らないに関わらず、どんどん子供に言葉のインプットを与えていかなければいけない。
だから、知らない言葉が含まれていたとしても、(もちろん、分かりやすい言い回しで、ゆっくり、丁寧に)物語などを読み聞かせていかなければいけない。
しかし、習得、未習得ということにとらわれて物語を読むことをためらってはいけない。

我々が子供だったころを思い出してもらえれば分かるだろう。
夜寝る前に、母親に物語を読んでもらった。
しかし、その物語の中には3、4歳の子供には分からないボキャブラリーがたくさん含まれていたことは確かである。
しかし、同じ物語を毎晩のように読んで欲しいと頼んで聞かせてもらっていたはずである。
そのような経験から、「分からない未知の言葉でも、周囲の言葉との関連や、言葉の響き、既知の言葉との類推などから直観的に理解する」能力を養うのである。

この子たちはまだ、I have a ooo.を習ってないから、習ってから話す、のではなく、子供が最初理解できなくてもどんどん使っていく。
そうしていくうちに、子供が言葉が使われる条件を自然に発見学習していくのだ。
「ああ、こういうときは I have a oooで、こういうときは、I am a ooo.なんだ。」と。

私は数多くの外国人(大人、子供含め)と会ってきて、実際にそういう人たちの中には、私が教えた者も数多く含まれている。
中国人、韓国人、フィリピン人、アメリカ人、カナダ人、シンガポール人、メキシコ人、ベトナム人・・・・・・・・・。特に、全く話せない状態で他国に来た者にとって、最初の3ヵ月は地獄だろう。
まったく理解できないのだから。
しかし、次第に理解できるようになり、子供の場合、半年(大人で1年~2年)もその国で現地人に交わって暮らしたら自然とその国の言葉が分かるようになる。もちろん、最初の“地獄”を勉強と経験によって乗り越えた者だけがその恩恵を受けられるのだ。子供でも大人でも、外国に行って、その国で自分と同じ言葉を話す人とだけ付き合ってたらその恩恵は受けられない。

「地獄の3ヵ月を乗り越えた者は6ヵ月目には話せるようになっている。」

これが私の持論だ。
持論というより、私が目にしてきた事実がそうなのだ。

そこで、最初の「教育新聞」に掲載されていた論考を批判したいのだが、「英語だけで行われる英語活動は難解で児童が退屈する」のは本当なのだろうか?

私は日本語の全く喋れない外国人のALTの先生が英語の授業をやってるのを見て、子供たちは本当に楽しんでいると思う。

「英語活動に日本語を適時導入した方が良い」というのは、私はどちらかというと、子供側の都合ではなく、指導者の力量の都合であると思う。
要するに、英語だけだと45分が持たないのだ。
喋り続けられないのだ。
子供の方は準備万端、早く英語の活動をしたい、たくさん英語を聞きたい、できれば話してみたい、のに、肝心の指導者の方が英語の準備不足で、むしろ「指導者の為に、英語活動に日本語を適時導入したい」のではないだろうか。

今の指導者は英語活動を45分英語だけで持たせる力量があるとは思えない。
力量不足、研修不足、教員養成課程の整備不足が挙げられるだろう。
日本は英語活動の黎明期なので、仕方がないが、10年後、20年後もこれだったら困る。

私は一つには、外資系企業や民間の語学学校に就職してしまうような英語に堪能な者で、教員の資格を持っている者を、英語教育の推進担当者として、給与にプラスアルファの手当を付けて外部からどんどん呼び込むべきだと思っている。
なぜなら、英語が堪能な者は、他に給与の良い仕事が見つかるので小学校などで働きたいと思わないのだ。(なぜなら、給与が外資系企業などに比べて低いから。)

英語が好きであり、会話力があり、どのように指導したら楽しく、効果的に身につくかを理解している英語のプロをできるだけ多く確保し、研修体制を整えることが急務だと思う。

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「英語偏重の外国語教育を批判」 を 批判


『スピードラーニング英語』





まずは田中氏のコラムから。

コラム
【大気圏外】英語教育偏重は止めるべきだ―「可能でもやらない」という姿勢を

田中良太2008/12/25
 英語は必須の伝達手段だとして、文科省は学習指導要領を改正し、高校の英語教育を英語で行うことに決めたようだ。しかし、欧州では逆に「英語帝国主義」を見直す方向だ。英語教育の強化がなぜ日本で提案されるのか、不思議だ。日本の学校教育なのだから、まず日本語をしっかり教えるべきではないか。英語強化はその後で考えれば良い。

 ◆文科省の改正案
 5年後の2013年4月から、高校の英語教育は原則として英語で行うことになるのだそうだ。文部科学省が22日発表した高校学習指導要領の改正案で、英語教育の強化が最重点となっている。日本語を使わない授業のほか、習得する単語の数も増やし、中学校の履修も含めて約3,000語とするという。

田中氏は英語教育偏重の外国語教育を見直すべきだとしている。
以前、教育新聞でも英語一辺倒の外国語教育を見直すべきと書いてあった。

私はこれらの考えを批判している。
現実的ではないからだ。

日本の英語教育の水準は他のアジアの各国のそれと比べてもまだまだ水準が低い、さらに、現実的な問題を考えると、英語帝国主義を批判するかしないかは別にしても、英語がグローバルなビジネスの現場では世界共通語である現状を踏まえると、むしろ、日本人はもっと英語に堪能であるべきであって、ここで英語教育を妥協するというのはまだまだ時期尚早なのである。

ちなみに日本人のTOEFLのスコアはアジアで最低ランクで北朝鮮などと同じレベル、しかし、世界市場で日本が担っている役割を考えると、日本人の英語のスコアが北朝鮮と同じというのでは心もとない。

高校で中国語を導入し、選択制にしたらどうかという意見も読んだことがある。

私は多くの外国人と交流があるが、世界で活躍している外国人は英語のみならず、第二外国語、第三外国語まで堪能な人も少なくない。
しかしながら、日本人は第一外国語である英語をマスターするためにも、大量のエネルギー、資金、時間を投与しすぎている。これは日本の公教育がまだまだ英語を教えきれていないことがあると思う。

英語か、中国語かという選択ではなく、今後の日本の役割を考えたら、英語も中国語も学ぶマルチリンガル教育が必要だと思う。

リーダーシップとは・・・?


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教師のリーダーシップってなんだろうかって考える。
子どもと関わっていて、
全体をまとめて引っ張っていける人、いけない人。

最終的に怒鳴って怒って、脅さないといけなくなってしまう人。
そもそも怒っても迫力が無く、子どもに甘くみられている人。

教師のリーダーシップって何って考えたときに、いくつか挙げられる項目があるかなと思った。
1.人間的な魅力
2.信頼感
3.存在感
4.指導力
5.相手への理解

人間的な魅力・・・・・この人の話をずっと聞いていたいなあ、この人ってなんだか興味深いなあ、と思わせるオーラのようなもの、人間的な深み、奥行き。
単に、子どもと友達感覚で遊んでいるのではなくて、何か新しい、面白いものを提供してくれる存在、そして、子どもたちもその人から何か面白い、楽しい、新しい何かを無意識に期待している。そういう人間、エンターテイナーとしての力量。
・・・・実は、私がずっと追究してきたのがこのエンターテイメント力で、じどうかん、がくどう、学校などで、子どもの前に立ったとき、その集団の注目を一瞬で引き付けるということを常に考えてきました。

信頼感・・・・・・頼れる、守ってもらえる、という感覚。母性的な存在感。子どもが足を怪我したら、消毒してあげ、絆創膏をはってあげる。机の中がごちゃごちゃしていたら、一度全部出して、一から整理整頓を一緒にやってあげる。「自分でやらせなければいけない」ということに固執して、結局だらしないままだと、自立するすべを子どもは学ぶことができない。
一緒にやってあげる。
学年に関係なく、年齢に関係なく、中学生であろうが、高校生であろうが、できてないところは手をかけてあげる。母親(OR父親)としての力量。

存在感・・・・・・先生が教壇にたっていると、それまでザワザワしていたものが急に大人しくなる。先生が話し出すと皆がキチンと聞く。それでいて、威圧しているわけでもない。自分は集団がザワザワして落ち着かないときは、体からオーラを発するようにしています。(別に宗教がかってるわけじゃないけど・・・ぷ)
集団が落ち着かないと大体怪我が増えるものです。

指導力・・・・・まず、声がでること。もちろん常に大声を張り上げている必要は無い、むしろ、大声ばかりだしていると子どもはそれに慣れてしまって聞かなくなる。分かりやすく具体的な指示をあたえる。ほめる、叱る・・・そのときも、全体に褒めるのか、個別に褒めるのか、叱るのも同様。

相手への理解・・・・・・まず、名前を覚える。当然。それから生活背景、自立の度合い、学力を知ること。「あーーあ、どうせこの人僕の事わかってくれてない。」と思われたら、言う事を聞かなくなり、信頼関係もできない。
逆に、普段あまり見られていないと思っている子どもに「〇〇さん、この前ーーーーーだったね。」と声を掛けると、「はっ」としたような表情をして、「見ててもらっているんだ」という思いと共に信頼感が生まれるきっかけとなることもある。

リーダーシップのことについて常に考える日々です。


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著者プロフィール

 国司 義彦(くにし よしひこ)
 学習院大学卒業。日産自動車株式会社を経て、株式会社JMC能力開発センターを設立、代表取締役。現在、日本教育心理学会、日本経営士会会員。経営者、管理者の指導に活躍する一方、早くから「心の豊かさ」「自己実現」を提唱し、『マズローの心理学』(産能大学)の著者F・ゴーブルらと、研究、啓蒙活動を展開。日本における人間性心理学のパイオニアとして、全米にも広く紹介されている。脱・経済優先社会への処方箋『苦悩と混迷を超えて』(F・ゴーブル著 泉分堂)の監訳者でもある。著書に『管理者──成功する五大条件』『社長道』(同文舘)『「問題解決」の基本がわかる本』『問題解決能力の磨き方』(PHP研究所)『人を魅きつけるリーダーの条件』『管理者の仕事』(こう書房)『部下育成の基本』『40代だからできること・すべきこと』(日本能率協会)など多数。